人を「愛すること」の意味。
俺はそれすらも失ってしまった。
だって、「愛すること」に意味なんてない。
理由を見つける前に、体が動いてしまうから。
頭で考える前に、お前を抱きしめたいって腕が叫ぶから。
こんなちっぽけな地球で、兄弟同士が愛し合ってはいけないなんて、そんなことを決めたのは誰なんだろう?
秩序、倫理、道徳。
どれも人間が生きていくためには必要なもので。
しょせん俺はその枠からはみ出すことなんてできやしない。
そして、優樹にこれ以上の禁忌を犯させることもできない。
俺が想うだけ、優樹は傷つくから。
初めて、手首を切った時も。
アメリカへと旅立った時も。
そして、今もなお自らを傷つけている時も。
優樹から流れる血の痛みの何倍も、心を痛めているに違いない。
俺の存在は、ただ優樹を追い詰めるだけ。
だから俺は、強くなりたかった。
優樹が不安を感じることのなく、この腕で抱きとめられるような力が欲しかった。
それは、今の俺では駄目なんだと思う。
若さにまかせて、理性を抑えることのできない自分では優樹を受け止めてやることはできない。
だから、いつか自分がもっと強くなって、力をつけたら。
その時もう一度、優樹に好きだってことを伝えたい。
俺はこの一ヶ月の間で、そう決意した。
優樹は天気予報を見ながらため息をついた。
よりによってアメリカに帰る日だというのに、南の方から台風が北上している。
今の時点ではこちらにくるかもわからないし、暴風域からは遠いが、予断を赦さない状況だった。
「優樹、どうするの?台風が通り過ぎるまで家にいたほうがいいんじゃない?」
母親が顎に手をやりながら、眉を寄せた。
「いや、さっき調べたら今のところまだ飛んでるみたいだから、ギリギリ間に合うかも。とりあえず行ってみるよ。」
「そんな無理していかなくても。明日なら私もお見送り行けるのよ?」
「んー、でも一応チケット取っちゃってるし。母さん来ないのは寂しいけど体のこともあるし、無理しなくてもいいよ。
それから、浩樹も送りに来なくていいから。僕一人で行くよ。」
その言葉を聞いてすごくあせった。
俺はもう少し、優樹と一緒に居たかった。
「俺行くよ。どうせ暇だし、もし欠航になったら一人で待ってるの暇だろ?」
「わざわざ台風の時に送りに来なくてもいいのに・・・。」
優樹は俺にきて欲しくないというのだろうか?
だけど最後の最後で、それだけは譲れない。
今の俺にとって一番必要なのは、優樹と過ごす残り少ない時間なのだから。
「つべこべ言ってないで、そろそろ時間だろ?行こうぜ。」
俺はそう言って車のキーを取った。
「車で行くのか?」
「だってそのほうが楽だろ。荷物多いし。この時間なら車もすいてるよ。」
そう言えば日本に帰ってきてからも俺の運転する車に乗せたことはないかもしれない。
乗せようにも優樹にはやはりどことなく避けられていたし。
ともかく俺としては車の方が楽だったから優樹が嫌がっても車で行くつもりだけど。
「運転大丈夫なのかよ?」
「任せろよ。俺に若葉マークなど必要ない。」
優樹は、その自信はどこから来るのだろう?というような顔をして玄関を出た。
しかしそんな表情も家を出ると少し堅いものになった。
何か寂しそうな顔。
後から思えば、この時なぜ優樹が悲しそうな顔をしたのかわかった。
けれどこの時の俺にはまさかそんなこと考えもつかなくて。
憂いを浮かべた優樹の表情を、ただ、美しく感じたんだ。
優樹は車の助手席に乗り込むと、ウインドウを開けて傍で見送る母親と目を合わせた。
2人の間に、微妙な雰囲気が流れる。
あのことがあってから優樹と母親がうまくいかなくなっていたのは分かってる。
俺は、それに対して何もできなかった。
「じゃあ、行ってくる。」
「気をつけるのよ。たまには手紙の一つでもよこしなさい。それと、冬休みにはまた帰ってくるのよ。」
「わかった。努力するよ。」
「あと、身体には十分気をつけてね。」
「うん、それもわかってる。それは母さんが気をつけることだろ。」
「そうね。私も気をつけるわ。・・・・・・それと・・・・ごめんなさい。」
俺は2人の会話には入り込まず、ただ傍で聞いていた。
母親の口から漏れた謝罪の言葉も、例外ではなく耳に入る。
今まで優樹に対して向けてきた憎しみに、彼女はきっと後悔しているのだろう。
「別にいいよ。」
そう、短い言葉で優樹は彼女を赦した。
「僕は、母さんのことを憎んだことなんて、一度もなかったよ。」
優樹の口からこぼれたその言葉は、きっと本心に違いない。
高速に乗るまで、俺たちの間に会話はなかった。
遠くの方から黒い雲が迫ってきているのを感じながら、無心に車を走らせる。
「母さんは、優樹のことを疎ましく思ってなんかないよ。きっとすごく愛してるんだと思う。」
沈黙を破るようにして俺は口を開いた。
優樹の透明な瞳は、西のほうからやって来る暗い雲を見つめていた。
「いや、軽蔑されて当然のことをしたから。しょうがないさ。」
「違うって。多分母さんにとって優樹は自慢の息子なんだよ。
俺なんかより全然勉強もできるし、キレイだし。あっこれは俺の意見か。
ともかく、大事にしてたと思うよ。」
そうなんだ。優樹みたいにキレイで、優秀な息子をどこの母親が疎ましく思うのだろうか。
期待していた分だけ、裏切られたような気持ちになったのかもしれない。
一時は軽蔑していても、心の核になる部分ではやはり誇らしい息子だったに違いないのだ。
しかし、優樹はそれでも深く傷を負い、今でも癒せないようだった。
「でも。あのことがあってからは目も合わせてくれなかった。」
運転しながらでも、優樹の表情が暗くなるのがわかった。
「それはショックだったんだろうな。自分の中で完璧だった息子が、あんなことしてて。
裏切られた気分になったんだと思う。期待してた分、尚更。」
だから、優樹のことを母さんは嫌ってなんかない。
それに、優樹自信が母親のことを大切に想っているのを感じた。
「でもさ、少なくとも優樹は母さんのことを憎んでなんかいないってわかって俺は安心した。
たぶんあの時頭ごなしに優樹を責めて、傷つけたことは、母さんにとっても罪悪感みたいになってるから。」
「俺は・・・今更憎んだりしてないさ。」
あの事件が起きてから崩れた親子のバランス。
その発端を起こしたのは間違いなく俺らだけど、それが母親を歪めてしまった。
これは、俺たちの一生背負うものになるかもしれない。
「優樹がいない間はさ、俺が母さんを支えてやらなきゃな。多分いろいろと弱いところのある人だから。」
優樹が居ない間は、おれが母親を守る。
今更かもしれないけど、失われたものを取り戻さなければ、優樹は幸せになれないと思った。
空港に着くと、やはり優樹の乗る便は欠航になっていた。
ロビーには出発を待つ人と、対応に追われる職員とでごった返していた。
予想していたこととはいえ、アクシデントには違いなく、優樹はため息をついて近くにある椅子に座った。
俺もその後を追うようにして横に腰を下ろす。
正直、俺は期待していた。
台風で飛行機が飛ばなければ、優樹が日本にいる時間が少し増える。
本当のところを言うと、アメリカになんか行かしたくなかった。
もちろん優樹がアメリカの大学に通っているのは十分承知だ。あっちで勉強したいこともたくさんあるだろう。
しかしどこか嫌な予感がするのだ。
俺はいたたまれない気持ちになって優樹の手を握った。
その手は男性のものとは思えないくらいきめが細かく、ゴツゴツと骨ばった感触はなかった。
ほんのりと、感じる温もり。
それだけが、今の、俺たちの全て。
「浩・・・。」
人前でこんなことをするなと言っているかのように、優樹が口を開く。
でも、俺はこの繋いだ手を離すつもりはない。
むしろずっと離したくないくらいだ。
この手を離してしまったら、もう二度と優樹には触れられないかもしれない。そんな漠然とした不安が募る。
何だろう。この胸騒ぎは?
「いいだろ、もうこれで終りにするから。」
やはり、すごく苦しかった。
この現実は、俺にとって。
触れ合う指先はこんなにも温かいのに、言葉ではできない気持ちがお互いの体中を満たしている。
悲しみ、寂しさ、怒り、絶望感?
名前のない感情が血液の中に溶け込んでどろどろと体の中を廻る。
なぁ、優樹。
なんでこんなに苦しいんだろうなぁ?
優樹は何かに耐えるようにして目を閉じた。
優樹も、やっぱり苦しいの?
ずっと見つめていたら、俺の視線に気付いたのか、落としていた視線を戻した。
まっすぐに見つめられたら、何かが胸をついた。
そして、その愛してやまない唇から残酷な言葉が零れ落ちる。
「今でも、僕のこと、好き?」
一瞬、妄想が生んだ幻覚かと思った。
でも、握った手から伝わってくる温度がこれを現実の言葉だって教えてくれる。
「好きだ・・・。」
「今でも、僕のこと、抱きたいって思う?」
そんなこと聞くな!
そんな当たり前なこと聞くな!
優樹は何でこんなこと聞くのだろう?
俺をからかって笑ってるのか?
「抱きてぇよ・・・!」
怒りと混乱が頭の中を交錯する。握った手にさらに強く力をこめた。
すると、優樹は突然椅子から立ち上がった。
その行動に真意をつかみかねた俺は、困惑した表情で優樹の顔を見つめた。
「優・・どこ行くの?」
「明日、飛行機が飛ぶまで、どこか近くのホテルに泊まりたい。」
ホテル?泊まりたい?
「浩樹は帰るか?・・・それとも。」
妙な胸騒ぎがした。優樹は、何を言おうとしてる?
一呼吸置いて、聞いた言葉を俺は信じられななかった。
だって、優樹がそんなこと言うはずがない。
優樹の心には、もう俺はいなくて。
ただ苦しめるだけの存在。
もしかして、こんな惨めに縋る俺に、同情しているの?
最後の餞別に、体をやるって?
「一緒に泊まるか?」
俺が、そんな誘いを拒めるはずないってこと。
優樹は知っててそう言った。
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