何が正しくて、何が間違ってるかなんて
もうどうでも良かった。
そんな道徳的なことは今までにも考えすぎというほど考えてきたのだ。
ただ僕という人間はとても弱いということだけは事実で。
いつも逃げてばかり。
そしてそういう時は必ず浩樹を傷つけてきた。
浩樹を好きだと自覚した時は血を流した。現場にいたのは浩樹だった。
母親からの侮蔑の眼差しを受けたときはアメリカへと飛んだ。アメリカに行く時は随分と浩樹と揉めた。
今もなお浩樹のことを忘れられずに再び傷をえぐった。僕の傷は浩樹の心にまで傷を作った。
そんなことの繰り返し。
日本に帰ってきて分かったことがある。
少なくとも自分は浩樹のことを全然忘れることなんてできなかった。
もう、笑っちゃうくらいに浩樹は僕のこことに中心にいる。
それがまるで指定席のようにそこから離れてくれない。
でも僕は浩樹への思いを捨てない限り、また浩樹を巻き込むことになる。
こんな最悪な循環に、終止符を打ちたかった。
僕だっていろいろ考えたんだ。
浩樹から逃れるためにはどうしたらいいか。
浩樹を忘れるためにはどうしたらいいか。
そのために僕は自分の中で決心をつけた。
きっとこれはこの苦しさの中からただ逃げるだけの方法。
弱い自分に似つかわしい方法。
我ながら自分らしいと思うよ。
これで、すべてが終わる。
僕は天気予報を見ながらため息をつく。
よりによってこんな日に台風が来ているのだ。
「優樹、どうするの?台風が通り過ぎるまで家にいたほうがいいんじゃない?」
母親が顎に手をやりながら、眉を寄せた。
「いや、さっき調べたら今のところまだ飛んでるみたいだから、ギリギリ間に合うかも。とりあえず行ってみるよ。」
「そんな無理していかなくても。明日なら私もお見送り行けるのよ?」
「んー、でも一応チケット取っちゃってるし。母さん来ないのは寂しいけど体のこともあるし、無理しなくてもいいよ。
それから、浩樹も送りに来なくていいから。僕一人で行くよ。」
「俺行くよ。どうせ暇だし、もし欠航になったら一人で待ってるの暇だろ?」
「わざわざ台風の時に送りに来なくてもいいのに・・・。」
そうは言っても内心うれしかった。
あと少しだけ。浩樹と一緒に居られる。
今の僕にとってはそれだけがこんなにうれしい。
「つべこべ言ってないで、そろそろ時間だろ?行こうぜ。」
浩樹はそう言って車のキーを取った。
「車で行くのか?」
「だってそのほうが楽だろ。荷物多いし。この時間なら車もすいてるよ。」
僕は日本に帰ってきてから浩樹の運転する車に乗ったことがなかった。
「運転大丈夫なのかよ?」
「任せろよ。俺に若葉マークなど必要ない。」
免許取りたてのくせにこの自信はどこからやってくるのだろう、と少し疑問に思いながら、玄関を出た。
家を出た時、なんだか少し感傷的な気分になる。
ここは僕が生まれてからずっと暮らしてきた家だ。色々と想い出がつまっている。
そんな思慕を振り切るようにして、車の助手席に乗り込んだ。
ウィンドウを開け、傍で見送る母親を見た。
どんなに憎まれているか知れない。
けれど母親という存在は特別だ。少なくとも、僕は彼女を哀しませたいなんて思ったことはなかった。
「じゃあ、行ってくる。」
「気をつけるのよ。たまには手紙の一つでもよこしなさい。それと、冬休みにはまた帰ってくるのよ。」
「わかった。努力するよ。」
胸が痛んだ。僕の唇はためらいもなく嘘を紡いでいたから。
「あと、身体には十分気をつけてね。」
「うん、それもわかってる。それは母さんが気をつけることだろ。」
「そうね。私も気をつけるわ。」
母親の心労も減って欲しいと心から思った。
もう思い悩む原因などない。
「それと・・・・ごめんなさい。」
ふいにもれた母親の謝罪の言葉。
一瞬何に対して謝られているのかわからなかった。
しかし、母親が言いたいことの真相はすぐに理解できた。
そのことに関しては僕はもう怒ってなんかいない。
深く傷ついているのは事実だけれども、母親のとった行動は当たり前のものだから。
「別にいいよ。」
そう、短い言葉で僕は彼女を赦した。
きっと、今そう言わないと、彼女は一生後悔する。
「僕は、母さんのことを憎んだことなんて、一度もなかったよ。」
それだけは、覚えていて欲しかった。
高速に乗るまで、僕たちの間に会話はなかった。
遠くの方から黒い雲が迫ってきているのを感じながら、無心に車を走らせる。
「母さんは、優樹のことを疎ましく思ってなんかないよ。きっとすごく愛してるんだと思う。」
突然浩樹が口を開いた。
「いや、軽蔑されて当然のことをしたから。しょうがないさ。」
「違うって。多分母さんにとって優樹は自慢の息子なんだよ。
俺なんかより全然勉強もできるし、キレイだし。あっこれは俺の意見か。
ともかく、大事にしてたと思うよ。」
「でも。あのことがあってからは目も合わせてくれなかった。」
「それはショックだったんだろうな。自分の中で完璧だった息子が、あんなことしてて。
裏切られた気分になったんだと思う。期待してた分、尚更。」
そういうものだろうか。
僕はあの頃確かに母親から憎まれていたように感じる。
気持ち悪い存在として見られていたのだ。
「でもさ、少なくとも優樹は母さんのことを憎んでなんかいないってわかって俺は安心した。
たぶんあの時頭ごなしに優樹を責めて、傷つけたことは、母さんにとっても罪悪感みたいになってるから。」
「俺は・・・今更憎んだりしてないさ。」
「優樹がいない間はさ、俺が母さんを支えてやらなきゃな。多分いろいろと弱いところのある人だから。」
その浩樹の言葉を聞いて安心した。
これで、これから先も母親は大丈夫だと思った。
そう思ったら、少し心が軽くなった。
空港に着いくと、すぐに今日の便はほとんど欠航になっていることがわかった。
もちろん僕が乗る便も例外ではない。
どうしたもんかなぁ、と思いながら、足止めをくらっている人でごった返す中、椅子を見つけて腰掛けた。
台風による欠航。
僕は日本にいられる時間が少しのびた。
それはつまり浩樹といられる時間が増えたことでもある。
僕は、まるで延命措置を施された患者のような気持ちになった。
あともう少し、一緒に居られる。
けれど、あともう少ししか一緒に居られない。
残された時間が延ばされたといえ、それは短かった。
隣に座った浩樹が、周りの目からは見えないようにして僕の手を握った。
「浩・・・。」
「いいだろ、もうこれで終りにするから。」
本当に悲しそうに、浩樹は言った。
その温かさが伝わってきて僕は涙が出そうになった。
この手を離したくない。
その気持ちだけが昂ぶって、どうしようもない。
今までも一ヶ月をかけて決心してきた決意が揺らいでしまいそうだ。
もう、浩樹とは関わらない。
そう決めた。
それなのに僕は最後にもう一度だけ浩樹を感じたくなってる。
指先から触れるぬくもりの何十倍もの温度を、欲してる。
僕は普段は信じてもいない神に問うた。
『最後に、もう一度だけ、浩樹と肌を重ねてもいいですか?』
浩樹を見ると、僕の方をまっすぐに見ていた。
辛そうな双眸。
そうさせているのは僕。
「今でも、僕のこと、好き?」
答えを知ってて、聞いた。
その言葉を聞きたくて、聞いた。
なんて浅ましい僕のエゴなんだろう。
それでも。
浩樹は僕の欲しかったものをちゃんとくれる。
「好きだ・・・。」
「今でも、僕のこと、抱きたいって思う?」
浩樹にとっては残酷なことを聞いているのかもしれない。
たとえそうは思っていても、僕は拒否するだろうから。
「抱きてぇよ・・・!」
言葉尻に、感情が漏れ出す。
発火寸前の何かが、そこにあった。
僕は浩樹と繋いだ手を、そのままに椅子から立ち上がった。
浩樹は不思議な顔で下から僕を覗き込む。
「優・・どこ行くの?」
「明日、飛行機が飛ぶまで、どこか近くのホテルに泊まりたい。」
浩樹が困惑した目で僕を見た。
「浩樹は帰るか?・・・それとも。」
心臓が早くなってる。
本当は言ってはいけない一言を、口にしようとしているから。
「一緒に泊まるか?」
それが、何を意味しているのか分かっているんだろ?
僕が、そうしたくて。
僕が、誘った。
浩樹は僕の手にこめた力をさらに強めて、椅子から立った。
空港の雑踏が嘘みたいに聞こえなくなった。
感じるのは浩樹の指から伝わる体温と、熱い視線。
その夜、僕らは最後の禁忌を犯すだろう。
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