一ヶ月
side Yuki 03




それは僕が帰国して1週間が過ぎた頃、突然起こった。






その日、俺は夜更かしのせいで随分遅く目が覚めた。
客間から出てリビングに行くと当然浩樹も父親の姿もない。
しかしいるはずの母親の姿はなかった。
不思議に思ってキッチンへと向かう。


流れっぱなしのシンク。
その水音を聞いて少し胸騒ぎがした。


リビングからは見えない、丁度死角になる場所に。母親はうつぶせになって倒れていた。
僕は慌てて駆け寄った。


「母さん!どうしたの?大丈夫?」


母親は僕の呼びかけに微弱に反応してこっちに向いた。
口元には赤。
鮮やかな赤ではなく、動物の匂いのする黒ずんだ赤。


ふいに僕の記憶の中で何かが呼び覚まされた。





流れ続ける水道。
そして血液。


いつか、初めて自分を切り刻んだ時と同じ。
あの時もお風呂の水を出しっぱなしにして、だんだんと染まっていく赤を眺めていた。


僕は一瞬過去を思い出して震えた。
呼吸が荒くなる。









壊れていた―――――――心。
もっとばらばらにしたくて自分自身を切り刻んだ。


僕は、絶対に抱えてはならない想いを抱えている。
こんなこと許されるはずはないのに。
どうして想いは溢れるんだ。


汚い自分。


どうやったら僕はきれいになれるの?
理由などどこにもなく、ただ衝動的に自分の左手首に刃をあてた。









「ゆう・・・」


トリップしていた思考は、横たわる母親の弱々しい声によって引き戻された。
あの時のことを思い出した身体が震える。
それでもこの状況をどうにかしなければ、という考えがようやく浮かんできた。


「母さん!大丈夫?」


あわてて駆け寄ると、青白い顔をした母親が俺に手をさしのべてきた。


「ちょっと・・・気持ち悪くて、吐いたら・・・血が。・・」


母親の血液は口から出たものだった。


「今救急車呼ぶから。」


見た瞬間はあれだけ取り乱していたのに、意外と迅速に行動が出来た。
救急センターへのコールはすぐにつながった。
症状と、所在を告げて電話を待った。
意外と冷静な自分がいた。
しっかりとしなくてはならない、と自分に言い聞かせていたからかもしれない。
母親の背中を抱きながら、タオルで汚れた血を拭った。
顔色はだいぶ蒼白だった。


「ゆう・・き・・・。救急車・・・・呼んだの?」


「ああ。大丈夫か?どこが痛い?」


「うん。今は痛くない。」


母親の身体はか細くて、今にも消えてしまいそうな感触を覚えた。
遠くの頬から救急車の音が聞こえる。
それはだんだんとこっちに近づいてきていた。


「ごめん。」


何でかそんな言葉が出た。


「何で・・・謝るのよ?」


「早く、倒れてるのに気付いてあげられなかったから。」


違う。本当はもっと違うとことろで、僕は罪悪感を感じているんだ。
何年も前から根付く、罪悪感。
抱いてはいけない想いを、結局自分はまだ忘れられないのだ。
あなたの望むような息子に、とうてい自分はなり得ていない。


遠くから迫り来る救急車のサイレンを聴きながら、僕の心は苦い気持ちで満たされていた。












母が倒れた原因は胃潰瘍ということだった。
幸い手術するまでの酷いものではなかったが、最低でも1週間は入院する必要があるということだった。


病院で診断を受けている間に、父が駆けつけた。


「優樹、母さんは!?」


父親はだいぶ慌てた口ぶりで言った。


「ああ、大丈夫。今検査受けてるけど。たぶん1週間くらいの入院で済みそうだって。」


「そうか・・・。」


「ねえ、父さん。母さん前にもこういうこと・・・。」


「ああ・・・。優樹がアメリカに行ってすぐな。その時は倒れたわけじゃなくて、お腹が痛いからって病院に行ったんだけど。精神的なもので、ちょっと胃の調子がおかしくなるらしい。」


「そうだったの?僕全然知らなかった・・・。でも、悪い病気とかじゃないんだね?」


「たぶんその心配はないと思う。 そう言えば浩樹は?」


「さっき学校に電話したよ。今から飛んでくるって。」


父親と話しているところに、ストレッチャーに乗せられた母が運ばれてきた。


「あなた・・・。ごめんなさい。心配かけて。」


「何を言っているんだ。それより大丈夫なのか?」


「今から先生があなたにも話すって。でもたいしたことはないみたい。」


父親は安堵のため息をついた。


「今から病室へお連れしますね。えーっと、主治医から病状の説明をさせていただきたいんですが・・・」


一緒についていた看護婦が言った。


「そうですか。私が行きます。優樹、母さんについていきなさい。」


「はい。」


「じゃあ、息子さんご案内しますね。こちらです・・・。」





母親の病室は最初の日は個室だった。
たまたま空いている部屋がなかったのだが、結構日当たりの良い部屋だった。
看護婦がベッドを整え、点滴などを取り付けて部屋を去ったあと、部屋のなかは僕と母さんの2人きりになった。


「優樹ゴメンね。せっかく帰ってきたのに。倒れたりなんかして。」


「そんなこと心配するなよ。それより自分の病気治すことだけ考えろよ。」


「うん。家のこと、頼むことになっちゃうけど・・・。」


「大丈夫だよ。あっちでは自炊してたんだから。母さんの代わりぐらいつとまるさ。」


母親の心労の種の一つに、間違いなく僕らのことがあるのを感じていた。
何とも気まずい気分だった。


「ねぇ優樹。・・・こんなこと言わなくてもわかってると思うけど・・・。」


母親は言いづらそうな目を僕に向けてきた。


「何?」


「もう、大丈夫だと思うけど。・・・浩樹とは。」


「分かってるよ。」


母親が言い終わる前に僕は自分で話を切った。
そう、言われるだろうということは分かっていたから・・・。


「僕も浩樹も、もうあんなことしないから。昔の話だよ。ちゃんと反省してる。」


「ええ・・・。なら、いいんだけれど。もう絶対に、あんなことは・・・ダメよ。」


僕が言ったことは半分だけ本気だった。
僕らにはもうやましい関係は何もない。それに、ちゃんと反省してることも事実。
でも、やっぱり気持ちはまだ残っているから。昔の話ではないのかもしれない。


僕が会話をさえぎってしまったことで、言葉を発する者はいなくなった。
そんな気まずい沈黙を破ったのは浩樹だった。


「母さん、大丈夫か?」


個室のスライドするドアを開け、浩樹が入ってきた。
一瞬。目が合う。
僕はなぜか気まずくなって目をそらした。









『もう絶対に、あんなことは・・・ダメよ。』


その日、病床の母親の言葉が頭を離れることはなかった。












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