それは僕が帰国して1週間が過ぎた頃、突然起こった。
その日、俺は夜更かしのせいで随分遅く目が覚めた。
客間から出てリビングに行くと当然浩樹も父親の姿もない。
しかしいるはずの母親の姿はなかった。
不思議に思ってキッチンへと向かう。
流れっぱなしのシンク。
その水音を聞いて少し胸騒ぎがした。
リビングからは見えない、丁度死角になる場所に。母親はうつぶせになって倒れていた。
僕は慌てて駆け寄った。
「母さん!どうしたの?大丈夫?」
母親は僕の呼びかけに微弱に反応してこっちに向いた。
口元には赤。
鮮やかな赤ではなく、動物の匂いのする黒ずんだ赤。
ふいに僕の記憶の中で何かが呼び覚まされた。
流れ続ける水道。
そして血液。
いつか、初めて自分を切り刻んだ時と同じ。
あの時もお風呂の水を出しっぱなしにして、だんだんと染まっていく赤を眺めていた。
僕は一瞬過去を思い出して震えた。
呼吸が荒くなる。
壊れていた―――――――心。
もっとばらばらにしたくて自分自身を切り刻んだ。
僕は、絶対に抱えてはならない想いを抱えている。
こんなこと許されるはずはないのに。
どうして想いは溢れるんだ。
汚い自分。
どうやったら僕はきれいになれるの?
理由などどこにもなく、ただ衝動的に自分の左手首に刃をあてた。
「ゆう・・・」
トリップしていた思考は、横たわる母親の弱々しい声によって引き戻された。
あの時のことを思い出した身体が震える。
それでもこの状況をどうにかしなければ、という考えがようやく浮かんできた。
「母さん!大丈夫?」
あわてて駆け寄ると、青白い顔をした母親が俺に手をさしのべてきた。
「ちょっと・・・気持ち悪くて、吐いたら・・・血が。・・」
母親の血液は口から出たものだった。
「今救急車呼ぶから。」
見た瞬間はあれだけ取り乱していたのに、意外と迅速に行動が出来た。
救急センターへのコールはすぐにつながった。
症状と、所在を告げて電話を待った。
意外と冷静な自分がいた。
しっかりとしなくてはならない、と自分に言い聞かせていたからかもしれない。
母親の背中を抱きながら、タオルで汚れた血を拭った。
顔色はだいぶ蒼白だった。
「ゆう・・き・・・。救急車・・・・呼んだの?」
「ああ。大丈夫か?どこが痛い?」
「うん。今は痛くない。」
母親の身体はか細くて、今にも消えてしまいそうな感触を覚えた。
遠くの頬から救急車の音が聞こえる。
それはだんだんとこっちに近づいてきていた。
「ごめん。」
何でかそんな言葉が出た。
「何で・・・謝るのよ?」
「早く、倒れてるのに気付いてあげられなかったから。」
違う。本当はもっと違うとことろで、僕は罪悪感を感じているんだ。
何年も前から根付く、罪悪感。
抱いてはいけない想いを、結局自分はまだ忘れられないのだ。
あなたの望むような息子に、とうてい自分はなり得ていない。
遠くから迫り来る救急車のサイレンを聴きながら、僕の心は苦い気持ちで満たされていた。
母が倒れた原因は胃潰瘍ということだった。
幸い手術するまでの酷いものではなかったが、最低でも1週間は入院する必要があるということだった。
病院で診断を受けている間に、父が駆けつけた。
「優樹、母さんは!?」
父親はだいぶ慌てた口ぶりで言った。
「ああ、大丈夫。今検査受けてるけど。たぶん1週間くらいの入院で済みそうだって。」
「そうか・・・。」
「ねえ、父さん。母さん前にもこういうこと・・・。」
「ああ・・・。優樹がアメリカに行ってすぐな。その時は倒れたわけじゃなくて、お腹が痛いからって病院に行ったんだけど。精神的なもので、ちょっと胃の調子がおかしくなるらしい。」
「そうだったの?僕全然知らなかった・・・。でも、悪い病気とかじゃないんだね?」
「たぶんその心配はないと思う。
そう言えば浩樹は?」
「さっき学校に電話したよ。今から飛んでくるって。」
父親と話しているところに、ストレッチャーに乗せられた母が運ばれてきた。
「あなた・・・。ごめんなさい。心配かけて。」
「何を言っているんだ。それより大丈夫なのか?」
「今から先生があなたにも話すって。でもたいしたことはないみたい。」
父親は安堵のため息をついた。
「今から病室へお連れしますね。えーっと、主治医から病状の説明をさせていただきたいんですが・・・」
一緒についていた看護婦が言った。
「そうですか。私が行きます。優樹、母さんについていきなさい。」
「はい。」
「じゃあ、息子さんご案内しますね。こちらです・・・。」
母親の病室は最初の日は個室だった。
たまたま空いている部屋がなかったのだが、結構日当たりの良い部屋だった。
看護婦がベッドを整え、点滴などを取り付けて部屋を去ったあと、部屋のなかは僕と母さんの2人きりになった。
「優樹ゴメンね。せっかく帰ってきたのに。倒れたりなんかして。」
「そんなこと心配するなよ。それより自分の病気治すことだけ考えろよ。」
「うん。家のこと、頼むことになっちゃうけど・・・。」
「大丈夫だよ。あっちでは自炊してたんだから。母さんの代わりぐらいつとまるさ。」
母親の心労の種の一つに、間違いなく僕らのことがあるのを感じていた。
何とも気まずい気分だった。
「ねぇ優樹。・・・こんなこと言わなくてもわかってると思うけど・・・。」
母親は言いづらそうな目を僕に向けてきた。
「何?」
「もう、大丈夫だと思うけど。・・・浩樹とは。」
「分かってるよ。」
母親が言い終わる前に僕は自分で話を切った。
そう、言われるだろうということは分かっていたから・・・。
「僕も浩樹も、もうあんなことしないから。昔の話だよ。ちゃんと反省してる。」
「ええ・・・。なら、いいんだけれど。もう絶対に、あんなことは・・・ダメよ。」
僕が言ったことは半分だけ本気だった。
僕らにはもうやましい関係は何もない。それに、ちゃんと反省してることも事実。
でも、やっぱり気持ちはまだ残っているから。昔の話ではないのかもしれない。
僕が会話をさえぎってしまったことで、言葉を発する者はいなくなった。
そんな気まずい沈黙を破ったのは浩樹だった。
「母さん、大丈夫か?」
個室のスライドするドアを開け、浩樹が入ってきた。
一瞬。目が合う。
僕はなぜか気まずくなって目をそらした。
『もう絶対に、あんなことは・・・ダメよ。』
その日、病床の母親の言葉が頭を離れることはなかった。
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