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何のために生きているのだろう?

と、一度くらいは皆考えたことがあるだろう。
そう考えた時に、自分が生きる目的を見つけていたり、そうでなくても日々の様々な事柄に忙殺されて深く考えてはいない。
僕はここ最近、ふとした瞬間にこの問いについて深く考え込んでしまう。

僕は、何のために生きているのだろう?




その難解な答えを僕なりに考えたとき、どうにも否定的な方向にしか頭が働かない。
もちろん生きていてよかったと思うことはあった。
かつての穏やかな時代、ただ浩樹の体温を感じていれば良かった時。何をしても楽しかった。
そして、浩樹と会った最後の日に、浩樹が僕が生まれてきたことに感謝してくれた時。本当に生きていてよかったと思えた。
今だって仕事はそれなりにやりがいがあるし、ルームメイトとはしゃいでいる時は楽しい。
それなのに何かが足りない。というよりは、世界がぼやけて見えることが多々ある。
酷く冷静に、物事を見てしまう。生き生きとしている自分を見ている、もう一人の自分がそれを嘲笑う。




(お前の欲しいものはそんなもんじゃないだろう?)




自分が生きていることの無意味さに気付くまいとして、僕は必死だった。
たくさんの友人も作ったし、いろんな事に挑戦したし、仕事もがんばった。
そもそも仕事をがんばらなくてはならないのには理由があるのだ。
自分が家族の前から姿を消すというワガママな行動にはたくさんのお金が必要だったから。
それを援助してくれた芳美さんにきちんと返さなくてはならなかった。
それから両親へも。アメリカに留学した時の学費と、仕送りしてもらっていた一切の生活費は返すべきものだと思った。

芳美さんへの借金は5年と少しの年月を経て、今日終了した。
両親へ払ってきた学費も、とうに払い終えている。しかしこれは続けていこうと思った。
僕は自分の居場所を明らかにしてはいない。一方的に送りつけていただけなのだ。
ただ、毎月決まって謎の入金があることが、僕からだと彼らは気付いているに違いない。
だから決してもう家に戻る気などなくても、自分がこの世界のどこかで生きていることだけは伝えられると思う。
それが、精一杯の僕の親孝行。

おそらく母親にしてみれば、僕がどういう決意で家を出たのか大体の見当はついているに違いない。
もう僕と浩樹のことで、これ以上母を悲しませるわけにはいかない。
そしてそれ以上に、弱い僕は、ただ逃げたかっただけなのだ。
あの胸がかきむしられるかのような恋慕と、それと背を向けるようにして存在する罪悪感から目をそむけたかった。

僕の失踪が、両親をもっと悲しませることは承知で。
代わりに、浩樹が親孝行してくれることを願う。
なんて人任せのご都合主義なんだと、もう一人の自分がまた笑った。

芳美さんへの送金を終え、家へ戻りながらそんなことを考えていた。
もうすぐ夏が来る。日差しが強くなるのを感じながら、僕は目を閉じた。
あるひとつの義務を果たしたという充足感と、虚無感の両方を感じながら。






芳美さんには毎月必ず送金時に国際電話で報告を入れていた。そうすることが僕への融資をする最大の条件だったのだ。
家に戻った僕は、例によって今月も送金した旨を伝えるべく電話の受話器をとった。今こちらでは夜の11時だから、日本ではもう次の朝を迎えているだろう。

TRRRRR・・・・・
何度目かのコールの後、目的の人物が電話に出た。


『はい、後藤です。』


「芳美さん、こんばんは。優樹です。」


『あら優樹、そっちはまだ夜だものね。』


「あそっか。ごめんなさい。あの、今日お金送ったんで、あとで確認しておいてください。」


『律儀に連絡有難う。これで全部終わったわね。あなたも随分と無理したんじゃない?毎月結構な金額が来てたみたいなのに。それに実家にも送ってたんでしょう?』


「ええ。そうすることしか、僕にはできないから。」


『もう日本に帰ってくる気はないのね。』


「はい。」


実は僕はかねてからこの件については芳美さんと話し合っていた。今は無理でも、いつかは日本に戻るということを。
けれども僕は、日本に戻ろうとはしなかった。
浩樹が存在している日本になんて、怖くて戻れない。
戻ったらまた、自分の気持ちが揺らいでしまいそうだから。


「芳美さんも、今まで本当に有難うございました。


『何よ?これで最後みたいな言い方やめて頂戴。私はもし貴方が家族と縁を切ろうとも、いつまでも可愛い甥なんだからね。それに居場所を知ってるのも私だけよ。もし今後私とも連絡を絶とうものならあなたの居場所を浩樹たちにバラすわよ。』


受話器ごしの芳美さんは、多分半分本気で脅しをかけているのだろう。そんな響きがあった。


「それだけは勘弁してくださいよ。」


『そうされたくなかったら今まで通り連絡はよこすこと。いいわね?』


「わかってますって。」


『本当にわかってんのかしら?まぁそういうことだから、よろしくね。それにしても・・・あなたがそこに居続ける理由が、決して逃げなんかじゃなくて・・・そこに居場所ができたからだと思っていいの?』


「まぁ、ここでの生活は楽しいですよ。素晴らしいルームメイトや同僚に囲まれてますし。」


僕は、努めて明るく言った。そうでないと、この虚無感が芳美さんに伝わってしまいそうだったから。


『それならいいの。私は、5年前と変わらず、あなたの幸せを願っているのよ』


「有難う・・・。」


海を越えてでも、芳美さんの気持ちが伝わってきた。
しかし今の僕にはそれが余計辛い。僕は5年前から一歩も進めていないから。
日本に置いてきてしまった人を愛する心があった場所にはぽっかりと空洞ができて、すきま風が伝う。
そして今まで真面目に履行してきた僕の役割をひとつ終えて、さらにその穴が広がったような気がする。

僕は何のために生きている?
今のところその答えは見つけられていない。

妙な虚無感に押しつぶされそうになりながら、僕は受話器を置いた。
それからしばらくの間自室に戻り、ベッドに腰掛けてぼうっとしていた。
何も考えられなかった。今ココに自分が存在していることすらつかみづらくなっていた。



やらなくてはならない仕事は、終わったのだ。






それから何日か、そんな日を過ごした。何をしていても自分が自分でないような気持ちになる。どこか離れている所で自分の存在を見下ろしているかのような変な感覚だった。
ある日の夜、部屋の窓から月明かりをぼんやりと見ながら考え事をしていると、ついに僕のイライラは臨界点を超えた。
今の僕にとって、どうしようもない感情の昂ぶりを静めてくれるのはあの行為しかない。
机の引き出しの中にしまってあるカッターナイフを取り出して右腕に当てた。
うっすらと切込みを入れるとわずかな量の血が滲んできた。いつもならばこれでだいぶ気分が落ち着くのだが今日はまだ僕の鼓動は鳴り止まない。そのことにすら怒りを覚えた僕は、もう一度、さっきより深く刃を入れた。
不思議と痛みはない。むしろ気持ちいいくらいだ。
いつもより深くカッターで切ったことで、血は滲むのを超えて流れ出るものになった。なんだかたまらなくいい気分になって、手首をはじめその付近を何回も切り刻んだ。
血は、とめどなく溢れ始めた。
僕はその状態にも恐怖を感じることはなかった。ただうっとりと、血が流れていくのを見つめる。
自分の中にある汚い部分を浄化しているような錯覚を覚えた。
僕の手首から流れる赤は、腕を伝ってひじへ、そしてひじから水滴となって僕のベッドのシーツを汚した。
この錆臭い匂いがイヤで、でも案の定自分の血が汚い臭気を放っていたことに安心した。
やっぱり・・・ぼくの思った通り・・・僕は汚いんだ。
そう考えているとだんだんと視界が曇り出した。血を失ってふらつきだす。
自分が倒れていく様子がよくわかった。しかしベッドの上に全身を倒した瞬間に、僕の部屋の扉が開いたことには気がつかなかった。




         




2004/10/19







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