<13>


初めて汚された夜以来、あのドアが怖かった。
扉を一枚隔てた向こうには、凶器に満ちた獣が息を潜めて僕を待っていたから。
けれども今日はいつのも比じゃないくらいにドアを開けるのが怖い。


ドアを開けると、人の気配がしなかった。
しかしそっと奥の部屋に行くと、この部屋の主の後姿が見える。
その手の内には、受話器。
あの小さい機械が、今まさに海を挟んで日本まで繋がっていると思うとぞっとした。


「まだかけてないよ。」


振り返った和人君が冷淡な口調で告げた。


「やめろよ。頼むから。もう二度と浩樹の前に姿を現すつもりはなかったんだ。どんな形であれ。」


「でももう遅い。ファイルはもう送っちゃったんだから。」


体中が冷える。それとは対照に自分の胸の鼓動だけがリアルに響いていた。


「なんで、そんなことをした?そんなことしたって何にもならない!あいつはそんなことで傷ついたりしない。」


「そんなことない。いつだって、あいつのターニングポイントはアンタなんだ。不思議な話、今すごくすっきりしてる。これで復讐も終わりだ。あとはあいつの反応を伺うだけだ。」


そういいながら和人君は電話番号をプッシュし始めた。


「やめてくれ!!」


僕は電話ができないように受話器を無理やり置いた。しかし和人君に捕らえられ、いつもされていたように両手をくくりつけられた。必死でもがくが無駄な抵抗にしかすぎない。
そうしている間にも中断されていたダイヤルを再びはじめ、呼び出しが開始されているようだった。


「優樹兄ちゃんも聞きたいよね。どんな風になるか。っていうか、聞く権利があるよね。」


和人君の手が電話機のボタンを押すと、スピーカーから呼び出し音が流れてきた。


「い・・・やだ!聞きたくない!聞きたくない!」


どんなに抵抗しても、手は塞がっていて否応なしに耳に音声が入ってくる。それでも無駄とはわかっていながら片方の耳を肩口に当てた。


呼び出し音がずっと鳴り続く。このまま出ないことを長いながら目をつぶった。
まるで死刑の宣告を待つ囚人のような気分だ。














『もしもし。』


誰の声かなんて一発でわかる。
ずっと聞きたかった、けれど聞きたくはなかったその声。


『もしもし・・・?どちら様ですか?』


「俺だよ。」


そういって話しかけた和人君の声はずいぶん冷えたものに感じられた。夏なのに寒くなる。ぞっとした感じ。


『その声・・・和人か?』


「忘れられてなかったみたいで光栄だよ、浩樹。」


『・・・・・・。』


「俺からかかってくるなんて驚いたか?」


『ああ。ちょっとな・・・。元気だったか?』


「何?お前俺が普通に友達として電話かけてくるとでも思っているのか?ハッ、笑っちまうよな。どんなお気楽な頭ん中なんだか。」


『そうだよな。和人には友達面なんてできないことはわかってる。何て言われようが文句を言えるわけもない。』


人からではなく、本人から日本であったことが事実だと知らされる。浩樹がずっとずっと遠くに感じられた。


「俺が文句を言うだけで気が済むと思ったか?」


『もちろんそれだけでお前への贖罪が済むとは思ってないさ。それだけのことをしたんだ。お前は俺を一発殴るでもなく、だまってアメリカに行ってしまったからずっと・・・ひっかかってた。まぁこんな罪悪感なんて和人に言わせりゃただの偽善なんだろうけど。』


「そんなの、晶子を俺に返せばいい話だろ。」


浩樹と話すことで、和人君の声がさらに凄みをましているように感じた。いつも、俺を罵倒しながら犯すときのあの表情が表れていた。


『晶子はモノじゃない。それに・・・俺はそんなつもりない。』


「お前らしいな。いつも、人一倍正義感が強くて、まっすで。そんなお前のこと、俺は本当に大好きだったよ。だからお前が壁にぶち当たろうとしていた時は本気で力になってやりといと思ったよ。」


『和人には、本気で感謝してるよ。』


「別に恩を売るつもりじゃねえよ。バカヤロウ。お前が晶子を幸せにしてやれるんならそれでいい。」


『和人・・・?』


「生半可な気持ちで親友裏切らねぇもんな。俺を裏切ったのと同じように、今度は晶子を裏切ったりなんかするんじゃねぇぞ。」


『ああ・・・。俺が今守らなければいけないのは、晶子と詩音だけだ。』


しおん・・・それが浩樹の子供の名前なのか。男の子か、女の子かはわからないけれど、昔から子供が好きだった浩樹の事だ。随分大事にしているんだろう。


「愛してるのか?」


『愛してるよ。・・・本当に、ごめんな。』

























あいしてるよ























僕が一番欲しくて、そして一番手が届かない言葉がそこにはあった。


「愛してる。・・・だってさ。」


急に話の矛先を僕に向けられて焦った。
やめてくれと、声も出せなくて、必死にかぶりを振る。


「あれからお前を憎むことをやめられなかった。どうやって復讐してやろうか、ずっと考えてたんだ。そんな時、ふいにいい方法を思いついてね・・・。なぁ・・・優樹兄ちゃん?」


どうしよう。あいつの前に二度と現れないと誓ったのに。
僕の存在があっちに伝わろうとしている。


『そこに・・・いるのか?』


浩樹の声色がこわばった。


「浩樹の大切なものを傷つけたら気が済んだよ。せいぜい晶子と子供を大切にするんだな。俺とお前は金輪際一切関わらないことにする。」


『優樹に何をしたんだ!?』


「メールを確認するんだな。すべてわかるさ。」


『メールって・・・おい!』


「じゃあ切るけど。優樹兄ちゃん、最後に浩樹にしゃべりたいことあったら言いなよ。」


僕に何も言えるわけないじゃないか。
受話器を押し付けられても、僕は息を吐き出すことすらできない。
今すぐにここで消えてなくなってしまいたかった。


『優樹?』


「・・・・・・。」


「浩樹に言うことないの?お前のせいで俺はこんな目にあったんだ・・・とかさ。」


僕はもう何もできずに目を閉じた。頼むから、頼むから・・・もう。


「なんかもうお前に聞かせる言葉もないみたいだから、切るわ。じゃあな。」


『おい!優樹!!ゆう・・・!』


浩樹の耳の奥まで響くような叫びを最後に、電話は途切れた。


「終わったな・・・。これで。」


独り言のようにつぶやくと、彼は僕の手に巻きつけていた枷を外した。
その枷から放たれた途端、僕のぎりぎりだった精神も決壊する。


「いやぁーーー!」


自分でもびっくりするような悲鳴があふれた。
それと同時に感情が抑えきれずに周囲のものをなぎ倒しながら暴れた。
この感情の名前などわからない。けれども発作のようなそれに支配された体は、周りにあるものすべてを壊してしまいたくて仕方がなかった。

いや、一番壊してしまいたいのは自分だ。

僕の急な暴走を止めようとする和人君の手を振り払って、立ち上がる。
自分の気持ちがあふれそうになった時、今まで僕はどうしていたって?
今の僕には自分が楽になれる方法を一つしかわからなかった。
そう思い立ってキッチンに向かう。
運悪く洗いかごの上に出しっぱなしになっていたそれを手に取る。


「物騒なも持つなよ!どうするつもりなんだ!」


彼の言葉など耳に入らずに、その、物騒なものの光る切っ先を一瞬眺めて、迷う暇もなく実行した。

アメリカに来てから、ずっと傷つけていた右手首に痛みが走る。いつも使っていたカッターなどとは比べ物にならない刃渡りを持つ凶器は、予想以上の傷口を作り出した。


「やめろ!何してんだ?」


それでも飽き足らなくて僕はお守りにしていたシルバーのブレスを外すとそれを和人君に投げつけた。そして、左側にも刃をおろす。
赤い斑点がキッチンの床を濡らした。

まだだ、まだだ、まだ足りない。

もう何がなんだかわからなくて、手首以外ににも足や腕、胸などいろんな所を切りつける。
そうやって切り刻めば僕もばらばらになって、消えてしまえるのではないかと本気で思う。


「やめろよ!やめてくれ!」


僕の手はすでに血まみれになっていた。
揉み合いになって包丁を奪われそうになり、必死に抵抗する。
その途中、空を切った刃先が、和人君の頬に薄く切り込んだ。


「痛っ・・・。」


滲み出した血を見て、僕は包丁を手から落とした。
すぐにそれは和人君によって回収される。僕がそれを握ることは許されなかった。
瞬間、力が抜けてその場に崩れ落ちた。


「優樹兄ちゃん!!」


一番深く切った左手首からはおびただしい量の血液が流れているように感じた。


僕が最後に覚えていたのは、その血が流れる様と、和人君の慟哭。








僕は、楽になりたかった。
それだけなんだ。






         







2005/7/26












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送