<17>


いくら夏とはいえ、夕刻ともなればだいぶ冷え込む。
そんなことは分かりきっているはずだったが、どうしようもなかった。
後のことも考えられなくなるほど、咄嗟に体が反応した。

何としてでも、逃げなくては。

病院のパジャマにサンダルという、着の身着のままで走りながら、頭の中はそのことだけを考えていた。
道行く人が僕のことを奇異の目で見ていても、そんなことは気にならない。
今の僕が、たった一つ恐れているひとに、見つからなければそれでいい。

病み上がりで急に走り始めたから、まだあまり遠くへは来ていないはずなのに息が上がる。
病院の敷地の隣に広がる公園の中をただひたすらに走ってきたが、ついに足を止めた。
大きく上下する肩を宥めすかせるように胸に手を当てた。もう一方の手はそばに生えていた木の幹へと当てる。
ここまで来て、少しは頭の中も落ち着いたらしい。
それでも先ほど告げられた言葉が信じられない。
何故・・・彼がここにいるのだろうか。絶対に、信じたくない状況だった。




















頭がおかしくなってしまうのではないかという不安に押しつぶされた夜だった。
それでも安定剤を処方されて、明け方には落ち着いて眠りにつくことができた。
僕はただ傷を癒すことに専念して、あとは日常に戻るだけだ。
ジェフは精神的に不安定な僕を気遣って、傷が治ったらちゃんとカウンセリングを受けてみてはどうかと提案してくれたが、僕はその気にはなれなかった。
自分の心の闇を見つめること。それには思い出したくないことも思い出さなくてはならない。
そんなのはごめんだ。逃げていると思われても構わない。自分に向き合うことに比べたら、自分を傷つけることなど簡単すぎるくらいだ。
もちろん進んで切りつけようとは思わない。なるべくそうならないように努力しなくてはいけないとも思ってる。 でも・・・あいつの、浩樹との問題に対峙することだけはどうしても避けたかったんだ。

眠りから目を覚ました時、相変わらず傍らにジェフの姿を発見した。
彼は僕が起きるのを待っていたかのように、声をかけてきた。


「お、やっと起きたか。」


「ん・・・今何時?」


「もうすぐ17時になるところだな。」


相当眠りこけていたらしい。薬の力を借りたとはいえ、自分でも呆れる時間だった。


「そんなに寝てたのか・・・。ごめん、ずっとついててくれたのか?」


「まぁね。論文ならここでも書けるし、今はそんなに急ぐものはないし。」


まだ眠気が残る頭を横に振り、上体を起こした。


「もう、帰っても平気だよ。入院がいつまでかはわからないけど、そんなにひどいわけじゃないから。」


「俺のことはいいだよ。それより、ユウキに話しがあるんだ。」


急にジェフが真面目な声になったからドキドキした。シリアスな話しは、なんだか聞きたくない。


「ユウキが倒れたこと、君の親戚のおばさんに話したよ。」


「えっ?」


「だって、こういうことは家族に知らせるべきだ。ユウキから言われてる唯一の連絡先が彼女のところだったから、そうさせてもらった。」


「そう・・・芳美さんは、何て?」


僕の問いに、ジェフは一度息をついて止まった。
何かいやな言葉を聞きそうな、そんな気配を感じた。
そしてそれは、気のせいではなかった。


「こっちに来るって。さっきニューヨークで乗り継ぎ待ちのところを電話もらった。」


「やだな。芳美さんに心配かけるつもりはなかったんだけどな。それに、こんな姿とてもじゃないけど見せられないよ。正直・・・会いたくないんだけど。」


「そんなこと言うな。だいぶ心配かけてるみたいだから、元気な顔見せて安心させてやれ。」


「ああ・・・わかったよ。」


変な沈黙が僕らを包んだ。お互いを探るように、見つめあう。
ふぅ、と小さな溜息をついて、ジェフが切り出した。


「それと、ユウキの弟も、一緒に来るそうだ。」







一瞬、ジェフが発した言葉の意味が素でわからなかった。
理解していたはずの英単語が、日本語に訳されない。
brother・・・ってナンだっけ?
海外生活を何年も送ってきて、そんな簡単な単語がわからないはずがないのに僕の頭脳は理解することを拒んだ。
理解できるけど・・・理解できない。
急に体が冷えて、手からヘンな汗が出ているのを感じた。
僕の・・・オトウト。


「そう・・・浩樹もこっちに来るんだ。・・・たいした、こと、じゃないのに。」


かすれたような変な声しかでなかった。
混乱した頭で必死に考える。
浩樹がここに来るということ。つまり、僕に会うべくしてやってくるということを。
無意識に体が動いた。気がついたらベッドから降りていた。


「ユウキ?どうしたんだい?急に。」


そばにいるはずのジェフの声が遠くに聞こえた。それでも僕は必死に理性を保つふりをして告げた。


「何でも・・・ない。ちょっとお手洗いに行きたくなって。」


「そうなのか?じゃあ、案内する・・」


その言葉が言い終わらないうちに僕は歩き始めた。


「いい・・・一人でだいじょぶ・・・だから。」


「ユウキ!」


病室のドアを勢いよく開けた。そしてドアが開くなり全力で走り始めた。
僕の体のどこにこんな体力が残っていたんだろうというくらい凄まじいスピードで。
ただただ、ここに居ては危険だと思った。
ここから離れないと、今度こそ僕は僕で居られなくなる。
僕の頭の中は、浩樹から離れることで一杯になっていた。




















気がつくと、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
雨足は急に早まり、細かい雫が容赦なく僕を濡らした。
夕方の肌寒さに加えて妙に冷たい雨が、完全に僕の体を冷やしている。
夢中で逃げているうちに、片方のサンダルは脱げたらしい。
裸足の足はすでに泥だらけだ。
もう随分遠くまで来たはずだ。周りの景色はいつしか街を抜け、郊外の森になっている。
遠くまで来れたことに安心して、僕は木の根元に腰を下ろした。
体が酷く重い。この変な寒気は、熱が出始めている証拠だろう。
これからどうしようかと、ぼんやり考えた。
家に帰っても、あそこはどうせジェフと僕の家だ。とてもじゃないが帰れない。
かといって交友関係がそこまで広くない僕の知り合いなどたかが知れている。
しかもそのほとんどがジェフとも共通の知り合いだ。
絶対に話が行っているに違いない。
だとしたら・・・行くところなんてないじゃないか。
金も1セントも持ってきていないんだ。どこかに泊まることもできない。
いろいろと考えをめぐらせているうちに、なんだかもうどうでもいいような感じになっていた。
このまま雨に打たれて眠ってしまってもいい。最初から体の具合は最悪なのだからこれ以上悪くなっても構わなかった。
あえて死んでしまおうとか、そこまでの意気込みはないけれど。
結果的にそうなってしまってもよかった。
それも僕の運なのだ。こんな僕でも、まだ生きていてもいいのなら、どうにか生き延びるんだろうし。
そんな投げやりな思考をぐるぐるとさせながら、いよいよ目蓋が重くなり始めたころ、不思議なことが起こった。

幻を見ているのだ・・・きっと。
こんなところまで逃げてきて見つけられるハズがないのだから。
死ぬ前によく見るという走馬灯のようなものだろうか。
最後に、一番会いたくなくて、一番会いたいひとに逢えるなんて。

「ばっかやろう!」


そう、幻が言葉を発した。
よく見るとその幻は僕が病室で履いていたサンダルの片方を持っている。
そう瞳が認識してすぐ、温かいものが僕を包んだ。
覚えのある、体温。
ああ。
ひとの体って、こんなにあったかかったんだっけ。
そんな変なことばかり考えていた。


「いつまで俺から逃げれば気が済むんだ?」


強い口調。叱責のはずなのに、なぜだか冷たい感じはしない。


「ごめん・・。ごめんね。」


「一体何に対して謝ってるのか、わかってんのか?」


「わからないけど・・・すべてに・・・かな?」


そう僕が言うと、僕を抱きしめていた腕は溜息をついた。
胸の辺りに頭を押し付けられて、鼓動を感じる。
その時に、わかったんだ。
これは僕の都合が見せた、幻なんかじゃないって。
本物なんだ。すべて。この腕も、肩も、胸も、・・・すべてが。









「もう、どこにも行くな。ずっとずっと、一緒にいてくれ。」


意識がぼんやりとして、混濁していたけれど、きちんと聞こえていた。
ちゃんと全部、聞いていたよ。
この時の、君の、気持ち。


「もう一度、俺にお前の隣をくれよ。もちろん、弟としてでなく、一生傍に置くパートナーとして。」










この時の浩樹の告白を、僕はいつまでも忘れない。
罪の意識とか、周りのこととか、何にも考えずに。
純粋に幸せを感じてしまっていた、僕がいた。




         







2006/6/25












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