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一日中同じ部屋にいるとぐるぐると考えだけが廻る。
することといえば、掃除・洗濯・料理。
時間はいくらでもあるからどれもが完璧に行われていた。
自分でもびっくりするほどしっかりと。
だって、他にすることがない。
ただぼんやりとしていればいいのかもしれないけれど、そうしていると何か落ち着かなくて思わず身体を動かしてしまう自分がいるのだ。
一応仕事はしている。時々ではあるけれど、英文の翻訳をしている。
少しでも生活の足しになればと始めた仕事だったが、
それも芳美さんの会社からもらった仕事だから、いつまでも人に迷惑をかけているみたいで申し訳なかった。




日本に帰ってきてからもう1ヶ月あまり経っていた。
成田について、数日間のホテル住まいのあと、僕らは部屋を借りた。
浩樹の会社からそう遠くない場所に立つ、小さなアパート。
そこが新しい僕らの生活の拠点だった。

今までの何年間をうめるかのような生活をしている。
浩樹が帰ってきたら、一緒にご飯食べて、一緒にお風呂に入って、何度も抱き合って。
誰の気兼ねもなく思う存分愛し合った。
この一ヶ月、僕らの間には笑顔しか存在しなかった。

少なくとも二人でいる時は。









夜の七時半を過ぎた。
もうすぐ浩樹が帰ってくる時間だろう。
今日の夕飯は麻婆春雨。
チャイナタウンでコックをしている友人に教えてもらった秘伝のレシピだ。
しかし作っている途中になって材料のうちの一つが足りないのに気づいた。
浩樹に帰りの途中で買ってきてもらおうと電話の受話器をとった。
電話は繋がらなかった。
地下鉄の中なのかもしれない。電波がはいらないらしい。
とりあえずメールを打っておいた。
家の近く、徒歩3分くらいのところのスーパーに売っているはずだから。

そんなに近いところに売っているなら自分で買いに行けばいいのかもしれない。
しかし今の僕にはそれはできなかった。
誰かに見られるという恐怖が、常に胸の中にあるからだ。

帰ってきてまもなくの頃、近所のショッピングセンターに買物に行った時、昔の地元の友達を偶然見かけた。
僕はとっさに逃げてしまった。
なぜだかはわからないけれど逃げなければと思った。
今の僕らのことが誰かに知られたら、やっと手に入った幸福が奪われるような気がしたから。
それからは、我ながら病気かもしれないと思うくらい、外に出ることに抵抗を感じた。
近くのスーパーに行く時ですら、心拍数が上がり、手足が震えてしまう。
浩樹と出かける時は辛うじて平気だ。
というか、平気なフリをしている。
心配は・・・かけたくない。
そんな訳で、所謂引きこもりのような生活が約1ヶ月続いている。
それでも僕は幸せだった。
そう思い込もうとしていただけかもしれないけれど、愛し合いされることの喜びに満ちた日々だった。






メールしてから20分ほどたって、部屋のインターホンが鳴った。
浩樹が帰ってきたと思うと素直にうれしくて、思い切りよく部屋のドアを開けた。


「おかえ・・・。」


頭の中が真っ白になった。
そこにいたのは浩樹ではない。
記憶の中にいるそれとは幾分も歳を重ねたように見える・・・母親だった。

僕は咄嗟にドアを閉めた。
鍵を閉めて後ろを向き、ドアを背にして座り込んだ。
外から、ドアを叩く振動が伝わってくる。


「開けなさい!!」


冷たい声。
僕の知る母の声の中で最も恐いトーンだ。


いっしょだ。


初めて僕たちの禁忌を知られてしまったあの時と同じ声色。


僕は声も出ず、ただ震えながら蹲るしかできなかった。


「開けなさい…!!もう逃げられないのよ?」


何回も何回もドアを叩かれた。


「優樹!!聞こえてるんでしょう?開けるのよ!」


何分間そんな攻防が続いただろう。
永遠に続くかと思われたが、いつまでたっても反応を示さない僕に、とうとう観念したらしい母はついにその手を止めた。


「分かりました。今日のところは帰ります。また出直してくるから。あなたとはちゃんと話さないといけないわ。いつまでもこのままでいられるなんて思わないでちょうだいね。…浩樹は、今日は帰しません。詩音が熱を出して、せめて今日だけは傍に居てあげると約束したから。…また来るわ。」


母親の気配が、遠のいた。
階段を下りる音が耳に残る。
僕は体の震えが止まらず、自らの腕で自分の体を抱きすくめた。






浩樹…!
こんな時にこそ、僕の震える体を抱きしめていて欲しいのに。
僕はそのままの体勢でずっとずっと浩樹の帰りを待っていた。
外で足音がするたびに、期待し、それが家の玄関にたどり着くことなく消えると酷く落胆した。

この幸せが長く続くはずなんてないってちゃんと分かってた。
それでも、束の間の幸せを一分でも長く、一秒でも長く享受できたらと思っていたのだ。
それもついに終わってしまうのだろうか・・・。


浩樹がいなくなった後の自分を想像してみたけれどうまく考えがまとまらない。
ただ周りが暗いということだけは分かる。
光を失って、自分が生きて行けるかどうかはわからない。
いろいろあったけれど、この人生の半分以上を占める浩樹への想いは一体どこへ向かえばいいのか。
あまりにもわからないことばかりだ。


「ひろ…き…。もどって…きて。おねがい。」







作りかけの麻婆春雨は、一晩中完成することはなく、キッチンの中で所在なさげに佇んでいた。

















         







2007/9/13












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