「おにいちゃん、まってよー。」
2〜3歳だろうか。小さい兄弟が公園で追いかけっこをしている。
その光景を眺めながら、僕はふんわりと笑った。
僕たちにもこんな頃があったのだろうか。
本当に小さいころは当然僕の方が浩樹よりも体格は大きく、お兄ちゃんぶってたっけ。
それがいつしか背の高さも体重も逆転され、精神的にも弱い僕を守ってくれる頼もしい存在になっていったのだ。
本当に懐かしい。
時計の針を戻せたらどんなにか良いだろうか。
浩樹と過ちを犯さなければ。浩樹を愛さなければ。
いや違う。生まれてこなければ・・・良かった。
浩樹を愛することで、そして愛されていたことで生きていることの喜びを感じることもあった。
しかしこうまでも彼の人生にとって自分という存在が重荷になっているのが現実だ。
わかっていたつもりだったが、今日の光景を見てその思いは増すばかりだ。
自分でも狂ってるとしか思えない行動力で、浩樹の家の前まで行った。
そこで浩樹の子供を見つめる愛おしげなまなざしと、生きている生身の子供を目の当たりにした。
浩樹がきっと昨晩帰らなかったことで僕の携帯を幾度も鳴らしたけれど、出る勇気は結局最後まで出なかった。
フラフラと、近くの公園のベンチに腰をおろして数時間。
お日様はもうてっぺんまで来ている。
昨夜はほぼ一睡もできなかったのだから体中がだるいのだけど、なぜか意識は覚醒していた。
ただひたすら考える。
このままの関係を続けられるはずがないということを。
アメリカまで僕を迎えにきて変わらず愛してくれた浩樹と、ずっと生きていくと心に決めたのに、僕の心はこんなにもすぐに揺れている。
そう決めたのは二人だけの世界にいたからだ。
こうして日本に帰ってきて実際に周りを見てみれば、それがどれだけ無謀なことで、なにより罪深いということが分かる。
でも、一度幸せをしってしまったこの体は、それを手放すことを決められないでいる。
どう・・・すればいい?
これでは堂々巡りだ。
「おにいちゃんどうしたの?あたまいたいの?」
考えがまとまらず、頭を抱えていたら先ほど遠くの方で遊んでいた子供の弟の方が声をかけてきた。
「大丈夫。なんともないよ。」
急なことに戸惑いながらも変に心配かけるのもいけないと思ってしっかりと答える。
「それよりお兄ちゃんはどうしたの?さっき一緒に遊んでたじゃない。」
「だっておにいちゃんいじわるするんだもん。ぼくまだちいさいから、いっしょにあそんでもつまんないって。」
「そんなことないでしょう。一緒に遊べるお兄ちゃんがいて羨ましいなぁ。」
「おにいちゃんはきょうだいいないの?」
子供は純粋な目で聞いてきた。
見られているこっちの汚さが申し訳ないくらいに。
「そうだな・・・弟が一人・・かな。」
昔は、弟が一人いたんだ。それがいつの間にか弟じゃなくなっていただけで。
「もしかしおとうととけんかしたの?」
急にそんな質問を投げかけられて戸惑った。
「どうしてそう思うんだい?」
「だっておにいちゃんなきそう。」
それを聞いてはっとした。僕はこんな小さな子供にすら悟られてしまうぐらい最悪な顔をしていたのか。
「なかなおりできるといいね。」
子供はめいっぱい元気な声で僕を励ましてくれた。
「そうだね。仲良しの兄弟にならなきゃだめだよね。」
「うん。ほんとうはぼくおにいちゃんだいすきなんだ。いじわるだけどさ。」
「君もね。ほら、お兄ちゃん遠くの方でこっち見てる。心配してるよ。」
みると向こうのアスレチックの陰から心配そうにこっちを見ている兄の姿があった。
「うん、じゃあね。おにいちゃん。げんきになってね。ばいばい。」
そう言うと子供は一目散で兄の元へと走っていった。
「バイバイ。仲良くね。」
見送って、僕はやっと思い腰を上げた。
直視しなくてはいけない現実に還るために。
外を人が歩く音が聞こえるだけで身構える。浩樹が帰ってくるかもしれないと。
そう思いながらも僕は平然を装って夕飯の準備をしている。
今日の夕飯はロールキャベツ。
浩樹が好きな料理の一つだ。
結局携帯の電源は切ったままで浩樹とは連絡をとれていないままだ。
もしかしたら家で僕の帰りを待ってくれていると思ってドアを開けたのだけど、部屋にはだれもいなかった。
窓から差し込む午後の日差しと、昨夜作りかけのままの麻婆春雨。
みるだけで昨夜の記憶が甦ってきそうで、もったいないとは思いつつもすぐにゴミ箱に捨てた。
浩樹は僕が電話に出ないこと、心配してくれているのだろうか。
そしてそんなことを思ってしまった自分が最悪だと嫌悪した。
そろそろ中の肉に火が通ったころだろうかと様子をみていると、ドアの外からドンドンという大きな足音が聞こえた。
それは僕たちの部屋の前でとまり、ドアが開く音がする。
全身が硬直した。浩樹に会ったらどんな顔をしようかと。
何て・・・切り出そうかと。
僕は大きく息を吸って深呼吸した。
取り乱してはいけない。なぜだかそう思った。
「おかえり」
普通に・・・言ったと思う。
それでもこんな言葉をあと何回浩樹にかけてあげられるのかと思ったら、言ったそばからいたたまれない気持ちになる。
「優・・・樹・・・」
なぜだか浩樹はびっくりしたような顔をし、それから一転して安堵の笑みを浮かばせた。
ふわりと抱きしめられる。
「ごめん・・・。」
「・・・んで。なんで謝るの?」
「昨日帰れなかった。連絡もなしに、本当にごめんな。・・・もしかしたら怒って、ここにいてくれないんじゃないかと思って心配したんだ。電話つながらないし・・・。」
浩樹は僕の頭を撫でながら、説明した。やさしく、あたたかい手で。
「ああ・・・ごめん。携帯の電源切れちゃってたみたいだ。充電してないし。・・・それに、その、事情は知ってるから。」
「なんだって?」
浩樹は驚いて僕の肩をつかんだ。
「昨日・・・母さんが来て。その、子供さんが具合悪いって・・・。大丈夫なの?」
子供の具合もそうだし、浩樹は今日も『家』に帰らなくてはならないのではないのか。あの子と、約束していたじゃないか。
パパ、きょうもかえってきてって。
「大丈夫だ。晶子とはやっぱり話し合わなければならないから、これからも定期的にコンタクトをとるつもりだけど。もう、あそこには帰らない。優樹と生きてくって言っただろ?勝手に外泊して心配かけてしまったけれど、ちょっと急に呼び出されて・・・。ごめんな。言い訳にしかならないけど。もう、大丈夫だから。一人にはさせない。」
何が大丈夫なのだろうか。
浩樹が必死に僕を安心させようとすればするほど不安になる。
もう僕たちはダメだ。僕は家族から浩樹を奪えない。何より、あんなに子供を愛してるはずの浩樹とあの子を引き離すことなどできない。
「浩樹・・・僕はやっぱり・・・」
混乱の中想いを告げようとした僕の口は、すぐに浩樹に塞がれた。
甘やかな彼の舌にからめとられ、これ以上言葉を紡ぐことを静止させられる。
「ヤバイな。一晩会ってないだけなのにこんなにすぐ欲しくなるなんて。」
欲情した浩樹の目が、僕を食いつぶす。
台所のシンクにもたれたまま、いつもより少し乱暴な愛撫に流されてしまう。
言わなくてはならないことはあるのに、快感が先に立って言えない。
濡れた瞳で僕を見る浩樹の視線の奥に、苦しそうな光を感じながら、僕は抱かれた。
行為のあと、今まで以上の罪悪感に身を震わせながら、眠りにつくまで。
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