16.溺れる

雨の音がして目が覚めた。
ここのところ雨が続いている。
じめじめとした空気の中、僕の心まで深く沈んでいきそうだった。

サイドテーブルにある時計を見ると朝の6時をちょっと過ぎた頃だった。
まだ学校に行くのはちょっと早いが、僕はベッドから降りた。
今まで僕が眠っていた傍らにはすっかり深い眠りに落ちているナオキさんの姿があった。
あまりにもぐっすりと眠っている彼を見て、申し訳ない気持ちが湧いてくる。

あの日、僕が家を飛び出した日から1週間以上が経っている。
あれ以来毎晩僕たちは抱き合った。
ナオキさんが求めてくることもあったけれど、そうでない時は自分から誘った。
抱かれないと眠れない。
そう気付いたのは3日目の夜だった。
食欲もあまりなくて、体調が少し悪い僕を気遣って、その日は一緒に寝るだけでいいと言ってくれた。
しかし僕は眠れなかった。
胸の中がチリチリと焼けるような感触。
何かが足りないって渇望する気持ちが高まっていった。
気付けば僕はナオキさんの上にまたがり、キスを落していた。
それを誘いと受け取ったナオキさんは壊れ物を扱うように丁寧に僕を抱いてくれた。
しかしそれでも、体調が悪い中の毎日のセックスは確実に僕の体に負担をかけていた。
ナオキさんにもその負担が及んでいないかがとても心配になる。
仕事は家でする仕事が多いから、好きなときに休んでいるならいいけど・・・。

そう思いながら洗面所へと向かった。
鏡に映った自分がひどく醜いものに見える。
僕っていう人間は何だ?

姉の夫をに勝手に恋して。

家出して。

毎晩愛してもない男の抱かれて淫らに腰を振る。

そして、この顔。細い体。

やはりここに来てから顔色がよくない。
ひと回り細くなったような気がする。
ナオキさんがちゃんと食べろっていうから夜は無理やり食べているけれど、それ以外まったく食べようという気にならなかった。
それでもそろそろ自分でもやばいなと自覚はあって、朝ゴハンにヨーグルトとパンをひとかけら押し込んだ。
食べ物を、受け付けない体。
意識はしていないけれど食べようとすると胸からせりあがってくるような吐き気がする。
そしてものを咀嚼するという行為自体がひどく億劫だった。

のろのろと身支度を整えているとすでに時間は7時を過ぎ、少々早いが学校に行くことにした。
家を出ても、学校にちゃんと行っているのには自分でも笑った。
最後にはマジメになってしまう自分の体質を恨んだが、家で仕事の邪魔をするわけにもいかないししょうがなく出かけていた。
当然姉さんが学校に探しに来るだろうと思って、姉さんの携帯には一度だけ連絡を入れておいた。

『・・・もしもし。』

姉さんの声を聞いた途端、やりきれない気持ちになった。
そしてもしかして僕が家を出た理由と知っていたら、という不安も生まれていた。
いろんな思いが交錯して声を発することができない。

「・・・・・。」

『淳!淳なんでしょ?』

僕が黙っていると言葉を荒げた姉さんの声が聞こえていた。
僕は受話器を握りしめた。

「・・・うん。僕だよ。」

『あなた、どこにいるの?』

怒りを秘めたような姉さんの声が聞こえてきた。
きっともうあのことを知っているのだと思った。

『昨日帰ってきたら淳がいなくて、また遊び歩いてるのかと思ったら全然帰ってこないし。隆平に聞いても分からない、の一点張りでらちがあかないし。どういうことなの?』

隆平さんは姉さんに真実を伝えていない?
どうして秘密にしてくれているのだろう。
それでも、僕は家に戻るわけにはいかなかった。

「ごめん。しばらく僕、家を出るわ。」

『ちょっ・・・どういうことなの?』

「この前好きな人がいるって言ったじゃん。そんで、その人年上で社会人なんだけど付き合ってるんだ。僕さ、ハッキリ言って新婚家庭の邪魔をしたくないんだよね。だからしばらくその人の家に泊めてもらう。」

『何言ってるの?淳のこと邪魔だなんて思ったことない!それに誰なのよ、その人。ご迷惑でしょう?』

「だってさ、姉さん僕がいたら邪魔でしょ?隆平さんとセックスしても大きな声出せないじゃない。」

『なんてこと言うの・・・。』

「だってさ、僕がいない時あんなにヤってたじゃん。僕が知らないとでも思った?」

『・・・・・・・。』

「別に理由はそれだけじゃないよ。あの家が息苦しいんだ。それに、僕も家のこと気にせずに思う存分エッチしたいしさ」

普段の僕からは想像できないくらいすごい言葉が出ていた。

『いつからそういう風に思ってたの。』

「最初からだよ。そもそも新婚さんと僕みたいな思春期の男の子が一緒に暮らすのって教育上悪くない?気ぃ使うのめんどいし。」

『だめよ。お父さんとの約束があるんだから。』

「そうだよね。その約束さえなければ僕を追い出してやりたい放題できるのに。」

『そういうこと言ってるんじゃないの!ただ・・・』

「大丈夫だよ。僕が勝手に家を出たんだから。約束を守らなかったのは姉さんたちのせいじゃない。それに、ちゃんと学校には行くから安心して。」

『そんなこと、いつまで続ける気なの?』

「とりあえずしばらくの間だよ。後のことはまた考えるから」

『ちょっ・・・ダメよ。そんなことゆるさな・・・』

僕は一方的に電話を切った。
言ったことは嘘が多いが、本音もあった。
あんな二人がいる家に居たくない。
報われない想いをまだ受け止められないのだ。
そんな中二人を目の当たりにできるはずはない。
そしてさらに想いを知られてしまっては絶対に二度と一緒に生活できるとは思わなかった。
それからというもの、連絡は一度も入れていない。
しかし姉や隆平さんが学校を訪ねてくることはなかった。
ほっとする反面、少し淋しかった。

学校へ行った僕は、まだ人気の少ない教室で一人ぼんやりしていた。
朝六時に起きたせいか、少し眠い。
眠ろうとすると眠れないくせに、昼間は眠さのようなけだるさが僕を覆っていた。

クラスの友人はすこぶる体調が悪そうな僕に気遣って保健室に行くことをすすめたが、僕はかたくなに断った。
もし保健室から家庭に連絡が行ったりしたら困る。
僕は一日をほぼ机に突っ伏して過ごした。

家に帰るころには過去最悪の体調になっていた。
いつものように合鍵で部屋のドアをあけ、リビングの白いソファに倒れこんだ。
軽い貧血を起こしたらしく、目の前が暗くなってきた。

僕が帰ってきた音に気付いたのか、ナオキさんが仕事部屋から出てきた。

「淳?帰ってきたの?」

僕は返事ができなくて黙っていた。

「具合悪いの?・・・ベッド行くか。」

ナオキさんはそう言って僕を抱えるとベッドへと連れてきてくれた。
ボーっとして自分が運ばれている感覚すら希薄だった。

「とりあえずゆっくり寝てなさい。」

おでこをひとしきりなでながら優しいことばをかけられて初めて自分の状況に気付いた。
ああ・・・気分が悪くてここまで運んでもらったのか。
ナオキさんはそう言い残すと仕事部屋へと戻ろうとした。
その時僕はなぜかとっさにナオキさんの腕を取っていた。

「待って・・・ナオキさん。」

「どうした?」

「して?」

こんな状況を自覚しておきながらも無性にナオキさんが欲しかった。

「こんな体で何を言ってるんだ。まずは休みなさい。」

「いやだ。抱いてよ。それとも僕みたいなの抱くのもいや?」

そう言い捨てた瞬間ナオキさんの顔色が変わった。

「何ばかなこと言ってるんだ。淳の体がもたないから言ってるんだ。」

「そんなのどうでもいい。僕を抱いて。壊して。」

最後のほうには涙がとめどなくあふれていた。
ナオキさんが抱いてくれないことで自分の存在価値が見出せなくなってしまう。
自分が求められている存在だって確かめたい。

「・・・しょうがないな。キツかったら言えよ。」

そう言ってナオキさんは僕への愛撫を開始した。



僕は何に溺れているのだろう?
ナオキさん?セックス?
自分が見えなくなるほど、何に溺れているか分からないほど、僕は「何か」に溺れていた。
いっそのこと、壊れてしまいたかった。



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